「福澤諭吉」と聞いて、みなさんは何を思い浮かべますか?
一万円札、『学問のすすめ』、慶応義塾大学の創始者など......
「詳しくは知らないけれど、歴史に名を残すほど、すごく頭が良くて、偉い人でしょ?」
そう思った方に、ぜひ読んでいただきたい本があります。
福澤諭吉が書いた自伝『福翁自伝』です。
もちろん、最初は現代語訳の本を(笑)
『現代語訳 福翁自伝』福澤諭吉著 斎藤孝=編訳(ちくま新書)
私が読んだのは、ちくま新書より出版された、齋藤孝先生の訳本。
一言一句正確に現代語にするのではなく「福澤が、いま、現代日本語で語ってくれたらどうなるかを意識し、その口調・ニュアンス・リズムを尊重して」「ストレスなく最後まですっと読めるものを目指した」と、おっしゃっています。
本当にその通りで、最後まですっと、ひじょうに面白く読めました。
そう、この自伝は、
とにかく面白いのです。
尊敬していた先生の昔話を聞いて、
「え!? 先生、若い頃はそんなことしてたんですか!?」
とびっくりする感覚に、似ています。
少なくとも、私の中の「福澤諭吉」像は大きく崩れました。
たとえば、緒方塾の塾生だったころ、仲間と一緒に塩化アンモン(塩化アンモニウム)製造に挑戦したエピソード。
119ページから122ページの一部を抜粋します。
「(アンモニアが)たいへんうまく取れることは取れるが、困るのはその臭いだ。臭いの臭くないの、何とも言いようがない」「それを緒方の塾の庭の狭い所でやるのだから、奥の方でもたまらない」
「夕方銭湯に行くと、着物が臭くって犬が吠える」「まっぱだかでやっても、体が臭いといって人に嫌がられる」「製造している本人たちはどうでもこうでもして塩化アンモンという物をこしらえてみましょうという熱心があるから、臭いのも何もかまわずしきりに試みているけれど、なにぶん周辺の者がやかましい」
「まわりがやかましくてやかましくてたまらないから、いったんやめにした」「けれども気強い男はまだやめない。せっかくやりかかった物ができないのでは学者の外聞が悪いとかいうようなわけで」「二、三の人はなおやった」
なんという、勉強熱心で、困った若者たちでしょう!!(笑)
福澤先生はもちろん、当時、学問を修めていた人々の知的好奇心のすごさには、ただただ驚くばかりです。
夕食後にひと眠りして、夜の10時くらいに起きて、明け方まで本(蘭学書)を読む。朝ごはんの支度の音が聞こえたら、また一眠りして、ご飯が炊き上がったころに起きて、銭湯に行き新湯に入り、戻ってきて朝食を食べて、また本を読む。つまり、食事と入浴以外の時間は、昼夜問わずひたすら勉強をしたり実験をしたりしていたようです。
その一方で、遊女の贋手紙を書いて江戸から来た学生を困らせたり、市中で大喧嘩の真似をして周辺の店が閉めさせるなど、若者らしいイタズラも大いに楽しんでいて、時代は違っても人間の「青春」は同じだなあと、しみじみ思いました。
なぜそこまでして学ぶのか? という疑問に対して、先生はこう書いています。
「西洋で日に日に新しくなっていく事情についての本を読むことは日本国中の誰にもできないが、自分たちの仲間に限ってこんなことができる。貧乏をしても苦労をしても、着る物も食う物も粗末で、一見見る影もない貧乏学生でありながら、知的思想の活発で高尚なことは王侯貴族も見下すという気位だ。ただ難しければ面白い。苦中に楽あり、苦即楽」(p.128)
難しければ面白い。
この言葉に「ぐっ」ときました。
実際、福澤先生は"学問"において、すごい方です。
勉学を始めたのは他の子どもたちよりも遅かったのに「朝に(漢書の)読み方を教えてくれた人と、昼になってその漢書の議論をすれば、必ず相手に勝つ」ほど、本の意味の理解が早かったとか。
21歳でオランダ語を学び始め、
22歳で緒方洪庵の塾に入門して蘭学の修行に入り、
25歳で江戸に蘭学塾を開き、
26歳には独学で英学をはじめ、わずか1年で幕府の翻訳方に雇われる。
などなど......。
生まれつきの頭の良さ、負けん気の強さ、そして何よりも「学ぶことの面白さ」を心の底から味わい、知識を得て活用することで、幕末から明治維新という激動の時代に、国家や人々の役に立つことを第一として活動していた福澤先生。
正直、こんな人だとは思わなかった。
こんな人だと知って、いままでよりもずっと、福澤諭吉先生が好きになりました。
そんな本です。
ぜひ、お近くの書店で手に取ってみてください。